まるはなのみのみ

日記です。ときどき意見や感想。

恩師

直接の恩師は有田豊先生だ。学部・修士と6年間お世話になったが、在学中はそりが合わなかった。とても苦手だった。先輩から、おまえは思っていることがすぐに顔に出るからいけないんだよ、と言われたが、その先輩も有田先生との関係を悩んでいたのでお互い様だと思った。とにかく怖かった。でも研究室のOBは皆、先生は年をとるごとに丸くなって優しくなったと言っていた。いろいろなことで怒られたが、背も高いし噂によると腕っぷしも強いと聞いていたのでとにかく怖かった。

礼儀には特に厳しかった。ある時、私はお酒で粗相をしてしまったことがあった。翌日、バツ悪そうに研究室に顔を出すと、粗相したことについては何も怒られなかったが迷惑をかけた別の研究室の先生に真っ先に謝りに行かなかったことに激怒されすぐさま謝りに行かされた。

思い返すとどんな時でも採集に行くことを止められたり控えるように言われたりすることは無かった。卒論提出が差し迫っている時に採集に出ても何も言われなかった。きっと内心は小言を言いたかったに違いないが、フィールドに出ることに関しては止めない方針だったのだろう。

在学中は有田先生に褒められることは無かったが、一度だけ認められていたのかなと思ったことがあった。

卒業間近の研究室主催のあるパーティでのこと。有田先生がマイクでスピーチした際に、吉富君はドクターに行くものと思っていたけどあっさり就職先を決めてきてしまい残念だ、ということを言った。その時はお世辞だと思ったが、今では半分くらいは本音だったのではないかと思っている。有田先生は虫屋の学生を大事にしていて、研究室に虫屋の学生がいて欲しかったのだと思う。残念ながら当時は、私しか虫屋の学生はいなかったし、私を最後に純粋な虫屋は研究室に入ることはなかった(知っている限り)。私の上の代まではすごい虫屋の先輩がいたのだが、ぱったり入ってこなかった。

卒業してからは2回褒められた。1回は修士論文を出版したとき、もう1回は博士論文を出版したとき。とにかく纏まった論文を出すことが重要と在学中に教えられてきて、その先生の教えにいつの間にか従っていた。

最近はしばしばメールを頂く。大先輩の矢田さんと3人でカジノキヒメスカシバの論文を出すことができたのも良い思い出となった。