まるはなのみのみ

日記です。ときどき意見や感想。

計画が大事

私がサラリーマンになってまず試練だったのは、忙しさ。とにかく忙しかった。年間100日以上の現場が入り、試料整理に報告書書き。新人で入社してすぐからそうだったので、驚いた。この忙しさは経験してみないと判らないだろうが、土日関係なく3年くらいは仕事に忙殺された。でも心のどこかに余裕があった。いや実際に沖縄に採集に行ったり博士課程に進学したりしていたので余裕があったのだ。あとで思い返せば、あの余裕は卒論と修論の作成で培われた“計画を立てること”から生まれたような気がする。ちなみに入社8年目の時に年間160日以上の現場が入っていた時ですら、私は余裕があったと思っている。年間160日以上の現場をこなす忙しさは、私が居た会社でも伝説的に語り継がれているほどだ。
だれでもいろいろな物事に対して計画を立てると思うが、実際には計画を立てられないこと、計画を立てにくいことのほうが多い。たとえば初めて任される仕事などはどれぐらいの作業量なのか判らないので、計画なんて立てられっこもない。だから我武者羅に頑張るのみ・・・・これでは駄目なのだ。計画は何が何でも立てなければならない。忙しすぎて何事も計画が立てられない、なんていうことは言い訳にもならず、忙しいからこそ仕事もプライベートも計画が必要なのだ。計画的な人生なんてつまらない、なんて豪語している暇があったらとりあえず計画を立ててみるべきだ。計画は大切なのだ。
私が言う計画とは、厳密なものでなくても良い。私は数学が苦手なので、作業量を掛け算や割り算で単純に見積もったものを、日数で割るようなそんな単純な計画で良い。自分がしたいことがあるなら、それらを列記し、それらの優先順位付けをするだけでも十分な計画なのだ。仕事量が判らなくても仕事の項目数は判るだろうし、アウトプットに向けての作業手順位は知ることができる。そこから何となくの計画を立て、より詳細に判ってきたら計画を立て直すのだ。
会社の同僚・先輩を見渡して、仕事をこなせている人たちは、博士号持ちだったり修士でしっかり論文を出したことがある人だったりした。そうでない人達は、仕事に追われ、余裕のない生活・仕事の接し方をしていた。いや、そうでない場合もあったが、なぜか高学歴の人の方が余裕があった。頭が良いからだろう、いや違う。博士論文や修士論文、もしくは投稿論文というアウトプットをしっかり出すことが出来た自信と、それを纏めるにあたっての計画を立てることへの訓練が実社会に繋がっているのだと、後になって気付いた。計画を立てることを無意識でも出来ている人と計画を立てることが出来ない人のアウトプットへの時間のかけ方と成果品のクオリティは、歴然としていた。
計画は自らの気持ちの中を整理することにも役立つし、計画があれば、自分がどれくらい忙しいのかを客観的に判断できる。上司に「この仕事を追加でやって欲しい」と言われた時、盲目的に「判りました」と言うのか、自分の忙しさを鑑みて「できません」と言うのか、それとも「自分の現状はこうだから、こういうスケジュールであればできます」というのか、自分の現状はこうだからここまでしかできませんと断るのか、どの返答が望ましいかは、社会経験が無くても判るだろう。ちなみに後ろの2つが計画を立てた人の回答だ。
私の好きなsurfaceの「それじゃあバイバイ」の歌詞に「セコイ計算も速い これも才能ってやつです」という歌詞がある。繰り返しになるが、私は数学が苦手だ。計画を立てるに当たって必要な計算式は足し算か引き算か掛け算か割り算で用が足りるのだ。そんな単純なことでも、計画は立てられるし、計画することがセコイとか無駄だとか思っているようでは駄目なのだ。求められる才能なのだ。
計画をどう立てるかは個性があるので、ここでは触れないが、計画を的確に立て、それをうまく生かしつつ修正しつつ生きていくことが、大切なのだ。
私は“計画”という言葉を使ったが、これを野心とか欲とか計算とかという言葉に置き換えて貰っても結構である。もしかするとそちらの方が理解できる場合もあるかも知れないが、いずれにせよ足し算引き算掛け算割り算の単純な計算式で自らの幸せを導くことができると私は思っている。
一度止まって、計画を立ててみたら?